2018年05月15日

智慧と福徳

智慧と福徳・2

波羅蜜乗では、無漏の智慧における無漏の福徳は積めないのか?

例えば、波羅蜜乗でも無漏の智慧を体験できる時があります。それは、聖者(八地以上)の等引智の禅定における状態となります。

しかし、等引智のままにおいては、波羅蜜乗では具体的な福徳を積む活動ができないため、福徳を積むには、等引智の禅定から出た後得智の状態において積むことになります。

しかし、後得智においては、無漏の智慧ではなく、所知障の影響下によって、再び有漏の智慧となってしまっているため、顕現するものが、あたかも実体があるかのように囚われを起こしてしまうのであります。

もちろん、マジックの種明かしを見た後のマジックを見ているような感じにて、後得智において、顕われは実体がない空性であることを頭では理解できているものの、それでも実体があるかのように習性的に捉えてしまう錯覚までは、まだ完全に拭いきれていないという感じであります。

その錯覚のままにての行いとなるため、まだ若干なりにも汚れが残る、つまり、有漏の福徳となってしまうのであります。

しかし、それでは煩悩障は断滅させることはできても、所知障を断滅させることができないままとなるため、所知障を断滅させる力となる無漏の福徳が必要になるものの、波羅蜜乗では、十地に至りて、仏陀の相好に限りなく近い存在となるまでは無漏の福徳を積むことができないと考えられるため、とてつもない長い時間を要することになってしまうのであります。

しかし、無上瑜伽タントラにおける幻身、それも清浄なる幻身であるならば、比較的速やかに無漏の智慧と共に、無漏の福徳を積むことが、今生、今身においても可能になるものであると考えられます。

問題は、福智二資糧をいかにして円満成就していくべきであるのか、娑婆世界、浄土世界を問わずに、何処にあろうとも、悟り、成仏のために二資糧集積は欠かせないものとなります。

娑婆に輪廻するにせよ、浄土に参るにせよ、何処に赴くとしても、二資糧を円満に調えられるように、できる限りに今生においても仏道に努めて参りたいものでございます。

智慧と福徳・1

倶生の大楽智が空性現量了解の段階に至ったのであるならば、それにて煩悩障のみならずに、一気に所知障を断滅できることにはならないのだろうか、、

もちろん、それならば、無上瑜伽タントラの場合、清浄な幻身を成就することなくに悟れることになってしまいます。更には仏陀の色身の因を欠いてしまうことにもなります。

そうではなく、勝義の光明の成就の後に、その勝義の光明のルンが、清浄な幻身となることで、更に両者の状態における修習により、やがて最終的に所知障を断滅できるように至りて、完全なる法身と色身を成就した仏陀となることができるのであります。

つまり、勝義の光明が必ず先で、空性の現量了解の状態にあっても、それだけでは所知障を断滅することはやはり無理であるということになります。

所知障の断滅のためには、無上瑜伽タントラの場合、必ず福徳の代替となる幻身が必要になるのであります。

では、逆はありえないのだろうか、、

例えば、清浄な幻身が先行して、勝義の光明が後から成就されるということだが…

つまり、福徳が先に所知障断滅の条件を満たした状態で、あとから智慧がその条件を満たすということになるのですが、、

これはやはりあり得ないことだと類推することができます。有漏の光明であるならば、そのルンも有漏であり、そのルンにより成就する幻身も有漏には変わらないからであります。

しかし、こう考えると、波羅蜜乗であっても、やはり智慧の先行性は同じなのではないだろうかと、、

いくら自分で善い行いを積んでいるつもりでも、全く空性を理解できていない内は、その行いは結局は有漏による福徳にしかならないのではないだろうかと、、

また、仮に不浄の幻身が、勝義の光明の成就により、消えてしまうように、波羅蜜乗における有漏の福徳というものも、智慧が無漏に至った段階で、その資糧の力を失ってしまうことになるのかもしれませんが、しかし、無漏の智慧、そして、無漏の福徳へと向けては、無上瑜伽タントラの場合と同様に、必ずそれも必要であると考えることもできます。

有漏の光明も、有漏の幻身も、無漏の両者へと向かうためにはやはり過程としては重要な段階としてあり、同じようにそれは波羅蜜乗でも、それはそうなのでしょう。

結局、長々として何が言いたかったのかといえば、空性を現量で了解できていないからと言って、諦めて何もしないでいては、全く何も進まないということなのであります。

もちろん、ただ、行いを盲目的に調えるのではなく、必ず智慧の修習もしっかりと進めながらでなければなりません。

智慧と福徳の修習は、顕密共に、鳥の両翼の如し、車の両輪の如しでなければいけないのであります。

・・

チッタマニターラ尊灌頂でのダライ・ラマ法王猊下様との問答内容再考・2

ポタラカレッジの齋藤保高先生から、拙疑問へのご回答をFacebookのコメント欄にて有り難くにも賜りましたので、改めてここにてもご紹介させて頂きます。

ジェ・ツォンカパ大師の『五次第一座円満』では、「究竟次第に於て、道を増進させる行をなす時点は、三つあり、すなわち、定寂身を得てから[不浄の]幻身成就のためになすことと、[不浄の]幻身を得てから[義の]光明のためになすことと、有学双運(双入)を得てから所知障断滅のためになすこと」で、「有学双運を得てから所知障断滅のためになす」行はあるとして、その具体的内容(自加持次第で成就した不浄の幻身による行のありように)につきましてもお教え下さいました。(ここではその具体的な内容までは省かせて頂きます。)

また、密教の総論としては、本尊瑜伽を維持しつつ行住座臥に布施などの六波羅蜜、菩薩行を積むことにより、二資糧を集積させており、上師瑜伽、各成就法などの行を継続しているならば、常に、本尊瑜伽を維持しつつ(意識の面で本尊の明確な顕現と慢を維持しつつ)行う行為は、福徳二資糧の集積となっているということになるとのことであります。

更に補足として、幻身は、成立しさえすればそれで事足りるというわけではないけれど、幻身によって福徳の資糧を積む在り方は、凡夫の思慮を遙かに超えたレベルだから、等身大に考えると分かりにくくなるとのことでありました。

・・拙生の場合、本尊瑜伽(意識の面で本尊の明確な顕現と慢を維持しつつ)がまだまだ未熟すぎるため、二資糧集積に全く自信が無く、実効的に積めているような実感が持てていないため、幻身でなければ・・との思いが強くあり過ぎるところにて思慮が及ばずにて恥ずかしいことでございました。

とにかく、もっとしっかりと行に努め励まなければならない次第でございます。頑張らなければ・・

・・

2016年11月12日、ダライ・ラマ法王猊下ご導師によるチッタマニターラ尊灌頂の前行法話における休憩時の質疑応答にて、拙生が猊下にご質問させて頂きました内容を、ここのところ改めて考えています。

平岡宏一先生の「秘密集会タントラ概論」によれば、悟りへと向けて必要となる膨大な福徳資糧の代替が、「幻身」(厳密には清浄な幻身)との位置付けがなされるところとなっており、拙質問は、「幻身」が、膨大な福徳資糧を、凡夫の身体とは比較にならないぐらいに速やかに積むためのお身体であると考えていたところがあったため、それで、質問の意図が猊下には伝わらなかったのかも・・と。

通訳の方が質問意図が掴めなかったのも、そして、平岡先生が最後に質問内容を要約されて猊下に通訳されたものの、猊下も平岡先生も、「幻身」そのものが、福徳資糧の代替なのに、こいつはいったい何を言っているのだろうか、という感じだったのかな、と思うと、改めてかなり恥ずかしくに…

もちろん、「幻身」としても福徳資糧を積めるのは積めるとしても、何より「幻身」成就の方が、かなりウェイトが高いようには思われるのであります。

もちろん、福徳資糧とは言っても、空性の了解の度合いにより、その集積の差は歴然と違うものになるため、明らかに「清浄な幻身」による福徳資糧は、空性了解に裏付けられたものであり、多大な力を有するものになるかとは思いますが、それよりもやはり「清浄な幻身」成就で、要は福徳資糧の代替であるとして事足りるとするものとして良いのか、そのあたりが未だやや消化不良になっているところであります。

また、仏陀の色身としての質料因が清浄なる幻身であり、福徳資糧の実践(条件として)は否定されるものではなく、幻身としての行においても資糧の実践が必要となるものでなければ、ただ、空性の智慧と、あと、ルンやチャクラなどの身体的技巧だけで事足りることになりかねないため、それでは福徳資糧が悟りと関係のないものになってしまいかねませんので、やはり、代替とは言えども、波羅蜜乗において積む資糧と同等の資糧集積は求められるものとなるのではないだろうかと考えます。

ただ、「秘密集会タントラ概論」の訳注p168、「勝義の光明の功徳」にて、禅定のままにて「清浄なる光明の観想で」二資糧を積むということは、実際の福徳資糧を積むのは、無上瑜伽タントラにおける成就法の福徳集積実践時のような観想にて行うだけで、他のどの誰(衆生)にも、その効果的な実行力、影響力を与えることは実質ないのではないだろうかという疑問も生じるのであります。

慈悲、方便の福徳行が、もしも観想で事足りるとするならば、現実世界での利他行は必要のないものとなってしまうのではないだろうか・・とも。

いや、そもそも煩悩障と所知障があり、空性への智慧も薄く、更に、この凡夫における不浄な身体である以上は、どんな福徳の実践をしようが、ほとんど悟りへと至るための福徳資糧にはならないと言えるのも至極当然であるため、迅速確実な悟りへ向けた福徳資糧は、何より、勝義の光明と清浄なる幻身によるところでないといけないというのも、ある意味において頷けるところではあります。

いずれにせよ、真なる福徳行は、智慧を円満にしたる仏陀とならなければ、実質的な効力を有するものとはならないというのも、それはそうであるのかもと思うところでございます。

ゆえに悟りへ至るまでの特に二次第のシミュレーションが重要であるというのも、納得のゆくところであります。

だからと言って、現実世界にて衆生が苦に喘いでいるのも仏道にあるならば見過ごせないことでもあり、やはり、観想でない実行も大切なことでもあるため、そのバランスをどうしていくべきであるのかが、課題であるのかなとも存じております。

・・

質問の内容

「無上瑜伽タントラにおける幻身の存在において、最後に所知障を断滅させるための三昧、金剛喩三昧に関して、自分の意思により、その三昧に入るのか、それとも、幻身の存在として、福徳の資糧を積む、その流れにより、自然に、金剛喩三昧に入り、所知障を断滅するのか、どのようなものとなるのかをご教示を賜りたくに存じます。」

チッタマニターラ尊灌頂におけるダライ・ラマ法王猊下様との問答内容について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/d814a5bc49ee9ffef9a7f8cf8cf73516

・・

本年の仏教修学予定について(川口英俊)
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/d233c5c6bfd2979249d75c85ade86378

日々の修習の記録・・

毎日のお勤め・・

・六座グル・ヨーガ(フルバージョン)(朝夕)
・ガンデン・ラギャマのグル・ヨーガ
・チッタマニターラ尊成就法(全)
 (全)は全て・(半)は義務読経まで

都度のお勤め・・

・甚深道たる上師供養儀軌・楽空無差別のグル・ヨーガ       
・上師供養における供物の供養というもの             
・ポア(ポワ)観想成就法・ミトラジョーキ大師「三つの真髄の教え」
・「五次第」読誦(秘密集会究竟次第解説和訳テクスト)

「本年の仏教修学予定について」2017.12.24
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/d233c5c6bfd2979249d75c85ade86378

「日々の密教修習の内容」2017.5.22
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/70dc1c61aa0103cce9c0a57dd58fae5e



口自在たる慧蔵にて至善なる勝者流の、教誨の真髄を持す比類なき御方、無数なる勝者の海を凝集せし御身に祈願せん。最上と共通の悉地を給わんことを。ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下に最敬礼申し上げます。

「偉大なる第十四世の長寿を祈願する如意自在王〔経〕」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/8f49efb18934ec00993d52e91c603327

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春秋彼岸中日・年2回開催・夕陽の彼方に観た浄土
往生院「日想観・極楽誓願法要」
次回開催は、9/23・秋彼岸中日・夕刻(雨天中止)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/72883056.html

往生院六萬寺サイト
http://oujyouin.com/

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お坊さんネットQ&Aサービス・hasunoha
http://hasunoha.jp/

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これまでの過去記事等は、拙サイトをご参照頂けましたらと存じます。

川口英俊サイト
http://www.hide.vc/
posted by hide at 15:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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